香水の歴史とは?古代より愛されていた香りを身にまとう文化
「香水」や「香り」に目を向けると、現代ではファッションとしてや、リラクゼーション目的に使われることがほとんどです。
今では性別や年代問わず、多くの人に使われている香水には、どのような歴史があるのでしょうか。
お仕事で香水やアロマといった「香り」を扱う人には、香りの歴史について学んでおくと良いでしょう。
豆知識として披露すれば、一味違った接客として喜ばれるかもしれませんよ。
今回は、意外にも長い歴史を持つ香水についてご紹介いたします。
香りの起源。香りが持っていた役割
人々の生活に、香りが使われる歴史はとても古いものです。「香料」として初めて歴史に現れるのは、紀元前3000年頃まで遡ります。
古代のメソポタミア地方では、シュメール人は「レバノンスギ」と呼ばれる香りのする木をいぶして神への祈りをささげていました。
ちなみに香りを意味する「Perfume」とは、ラテン語の「Per Fumum」(煙によって)が語源になっています。
同じ時代にメソポタミア文明と共に栄えた古代エジプト文明では、香料を魔除けや、防腐、防臭目的として使用していました。
古代エジプト人は、権力を持つ王様が亡くなると、王様の体に白檀(びゃくだん)や没薬(もつやく)などの香料をたっぷりと塗りました。
そしてミイラにして手厚く葬ったのです。この没薬のことを「ミルラ」といい、ミイラの語源になったとされています。
また、香りの持つ防臭効果は人々の生活にも取り入れられました。
部屋を香りで満たすことや、油脂に香料を混ぜ合わせた「香油」を体や衣料に香りを染み込ませることで、香り自体も楽しんでいたとされています。
蒸留技術の発達
その後、香油はエジプトからギリシャやローマへと伝わっていきました。
それに伴い香料の製造が盛んになります。お風呂文化が浸透していたローマでは、入浴後に香油が体に塗られました。
これは、香りは病への治療効果があるとされたためです。蒸留技術が発達すると、原料を蒸留して作られる「精油」が登場しました。
エッセンシャルオイルとも呼ばれる精油は現代の香水にも使用されていることから、蒸留技術の発達が香水の歴史を大きく発展させたものだとわかります。
さらに、この時期に同じく蒸留器によって、発酵物からアルコールを作り出す技術も生まれました。
それ以前は、香油が主流でしたが、アルコールが抽出できるようになって以降は「ローズウォーター」などの、アルコールに香りをまぜた「香水の先駆け」のようなものが作られるようになったのです。
クレオパトラが愛した香り
クレオパトラと言えば、世界三大美女のうちの一人として有名です。
彼女はバラがもつ魅惑的な香りをこよなく愛していました。
クレオパトラは、部屋にバラを敷き詰めたり、入浴の際にはヤギの乳で浴槽を満たし、そこにバラの花を浮かべたりしました。
湯から上がると肌に精油を塗り込み、その美貌をさらに魅力的なものにしたのです。
クレオパトラの香りへの執念はすさまじいものでした。自分だけの香料工場を所有し、一度に使う香料にかける金額は、現在の価値にして数十万にものぼったとされています。
カエサルやアントニウスといったローマ帝国で名をはせる英雄たちは、クレオパトラから放たれる優美なバラの香りに魅了されたと言われています。
クレオパトラが愛した、バラに動物性の香料を調合した香りは、そんな英雄たちを虜にして離しません。
海を渡りアントニウスに会いに行った際には、クレオパトラは豪華な船に乗っていったとされます。
遠く離れた陸地にいても、バラの香りがしたことでクレオパトラの船がやってきたのがわかった、という伝説も残されています。
アントニウスは夕食に招かれ、船に乗り込みます。その際にも、クレオパトラは膝にまで達するほどのバラを部屋に敷き詰めて出迎えたという話は有名です。
香料のメッカ / グラース地方
「香料のメッカ」と呼ばれるグラース地方に香料が持ち込まれたのは16世紀、十字軍の遠征によるものでした。
イスラム諸国から聖地エルサレムを取り戻すために、十字軍が頻繁に遠征するようになったことで、東洋からの香料やスパイスがヨーロッパへ運ばれたのです。
するとベニスの商人により、これらの香料がヨーロッパ内で広く取引されるようになりました。
当時グラース地方では皮革産業が栄えていました。香料は皮革の消臭剤として重宝されたのです。
その後マルセーユでフランス貴族たちに人気を博していた石けんにも香料を使用するようになりました。
グラース地方は、ジャスミンやローズ、ラベンダーやオレンジフラワーといった香料の原料となる植物の栽培に適した気候だったために「香料のメッカ」として、現代に至るまでに発展していったのです。
香水のはじまり
アルコールを使用して作られた最古の「香水」としての記録を見てみると、14世紀のハンガリーに行き着きます。
当時のハンガリー王妃であったエリザベートに献上されたのが「ハンガリーウォーター」です。
ローズマリーをブランデーとともに蒸留し、そこへラベンダーやミントなどを加えて作られたハンガリーウォーターは、その時代には薬として使用されていました。
高齢であったハンガリー王妃が、ハンガリーウォーターを服用すると、リュウマチが治り、美しさをも取り戻したため、若きポーランド王から求婚されたという伝説も存在します。
液体香水の広まり
香水が世の中に広まったのは、16世紀末のことです。
イタリアのフィレンツェからフランスの王アンリ2世に嫁いだ、カテリーナ・デ・メディチが持ち込んだ香水がきっかけとされています。
サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局で処方された「王妃の水」とよばれる香水は、当時のフランスで使われていたものよりも質がよく、女性貴族の間で大流行しました。
このサンタ・マリア・ノヴェッラ薬局はサンタ・マリア・ノヴェッラ協会に属する「薬局」ですが、香水を扱うブランドとして現代の日本でも百貨店などで見かけることができます。
香水が必須であったベルサイユ宮殿
17世紀に入ると、絶対王政の時代が始まります。
当時のフランス国王であったアンリ4世と息子のルイ13世によってベルサイユ地方に小規模な宮殿が建てられたのがこの物語の始まりです。
その後ルイ14世の統治時代に入ると、財力の象徴として、ばく大な費用を使ってベルサイユ宮殿の改修が始まりました。
大改修はその後も続き、宮殿敷地内には常時2万人以上の人と、2千頭の馬が改修業務のために常駐していたとされています。
当時水道の技術を持っていなかったフランスでは、トイレと言えば腰かけ式の便器に排せつし、下の受け皿にためるものでした。
ベルサイユ宮殿に住む王様や貴族、そして召使いなどは合わせると約4000人ほどいたそうです。
それにもかかわらず、便器の数は少なく、宮殿の敷地も広大であったため、トイレに間に合わないこともありました。
このことから当時のトイレ事情の悲惨さは簡単に想像がつくでしょう。
ドレスで着飾った貴族たちは、舞踏会に出席する際におまるのような持ち運べる便器を持参したとされています。
便器にたまった排せつ物は、召使いが庭に流していました。その他にも廊下や部屋の隅にも用を足す人が大勢いたため、ベルサイユ宮殿は悪臭であふれていたのです。
そんな臭いを自らから遠ざけるために、貴族たちはこぞって香水を身にふりかけました。
悪臭のする場所では、携帯する香水の香りを嗅ぎながらその場をやりすごしていたそうです。
近代における香水
19世紀頃になると有機化学の研究が発達し、香水に関わる技術も進化を遂げていきました。
フランスに位置するグラース地方のように、香料の原料となる植物の産地が国内にある場合には、香水の生産も容易なことです。
しかし、天然香料の産地を持たないドイツでは、天然の原料を使用する代わりに、化学を用いた香料の生産方法が開発されたのです。
研究者たちは新たな香りを求め、合成香料を作るようになりました。
合成香料とは、人工的に精製や製造された香料のことです。合成香料には2通りのものがあります。
反合成香料:バラやシトラスのような香りを作り出すために、他の植物から同じ香り成分を取り出して、似せた香りで作られたもの。
合成香料:石油系の原料から合成してつくられた香料。同じ香りを持続的に生産できて、天然の香料よりも香りの持続が長いという特徴があります。
合成香料の誕生により、香水の大量生産が可能となりました。
価格も安価になったことから、それまでの天然香料に替わって、合成香料を使った製品が日常の中に増えていくことになります。
現在でも、柔軟剤やトイレの芳香剤などには合成香料が使われています。
アロマテラピーの提唱
20世紀に入るとフランス人科学者ルネ・モーリス・ガットフォセによって、エッセンシャルオイルの効果が注目され始め、アロマテラピーが発展していきます。
アロマテラピーとは、植物から抽出した精油の香り成分を使用した自然治療です。心と身体をリラックスさせることで、美容や健康に役立てる効果が期待されます。
アロマテラピーは世界中に広がり、現在にまで及ぶ発展を見せています。
ガットフォセが立ち上げた香料店は、彼の死後も研究を続け、現在でも医療品などに使用する原材料の研究や開発を行う会社としてフランスに残っています。
アロマテラピーの効果は、現代のさまざまな現場で活用されています。
美容や健康の促進効果に加えて、スポーツの現場や介護、医療の場でも人々にいやしの力を与えているのです。
日本と香水の歴史
では、香水はヨーロッパで生まれ世界中に広がっていきましたが、日本にはどうやって伝わったのでしょうか。
そして、日本人と香りとの関りはどのような歴史を経て、今に至るのでしょうか。
仏教がきっかけ
古代インドから伝えられた香りの文化は、飛鳥時代に仏教の伝来とともに、日本に伝えられました。
奈良時代には、唐の鑑真和上が沈香や白檀などの香薬を調合して作る薫物を伝え、香りを仏前に備える文化が根付きました。
今でも、お寺に行くと練香がありますよね。
そして、平安時代には仏前だけでなく、日常でも香りを楽しむ文化が始まります。
貴族の間で、部屋で香木を焚いたり、衣服に香りをつけたりといった楽しみ方をしていたのです。
また、季節のさまざまな出来事をテーマに、香料を混ぜてオリジナルの香りを作り、その出来上がりを競う「薫物合わせ」という遊びも行われていたようです。
平安時代の貴族にとって、香りは美意識を高め、自己表現をするツールだったのですね。
そして、当時は貴重なものだった香料を入手できる身分だという証明にもなっていたようです。
「源氏物語」や「枕草子」などでも、当時の人々と香りの関係性をうかがい知ることができます。
香道
日本の香りの文化といえば「香道」でしょう。「香道」とは、一定の決められた作法で香木を焚き、いくつかの香木の香りを聞き分ける遊び。
和歌や故事などをテーマに、香りのイメージを伝え合う、ゲーム的な要素もある伝統文化です。
ちなみに香道では、香りを「嗅ぐ」「匂う」ではなく「聞く」と言うんですよ。
この香道は、武士の時代に発展していきました。
平安時代は優美な香りが好まれていましたが、武士は爽やかな香りの沈香がお好みだったよう。
沈香は鎮静効果があるので、戦の前に気持ちを落ち着ける効果もあったようですよ。
平安時代にも、貴族がオリジナルの香りをアレンジして競い合う「薫物合わせ」という遊びが行われていましたが、これに武士の香りを楽しむ文化や、禅の視点などが加わってできたのが「香道」です。
その中心人物が、室町幕府の八代将軍であった足利義政。
足利義政は香木を収集していて、自身を取り巻く文化人とともに、問香を楽しんでいたそうです。
足利義政が所持していた香木は膨大な量があったため、保管のために分類する必要があり、当時の香りのエキスパートであった三条西実隆や志野宗信などを中心に、「六国五味」という分類法が生まれました。
ちなみに「六国五味」とは、香りの性質を表す伽羅・羅国・真南蛮・真那賀・寸門陀羅・佐曽羅、香りを味で表現した甘・酸・辛・鹹・苦のことです。
その後、社会の変化とともに発展した香道ですが、江戸時代になると市民にも広がっていきます。
その理由は、政治が安定し、経済が発展したから。
香木は変わらず高級なものでしたが、上流階級を中心に人々が楽しむようになりました。
当時は教養をつけたい男性が嗜むものという位置づけだったようです。
日本での香水の誕生
江戸時代になると、香料を化粧品に使うなど、香料が庶民にも身近なものになっていきました。
香りがついた化粧品として特に庶民に人気だったのが、「伽羅の油」や「花の露」といった鬢付け油。
江戸時代後期になると化粧水が誕生しました。
平賀源内も著書の中で、蒸留器を使った「薔薇露」の作り方を説明しています。
そして、明治時代になると舶来品として日本に香水が登場。
ついに日本に香水がやってきたのです。
この時代に日本で人気だったのはムスクの香りだったようです。
それまでの日本では植物の香りが主流でしたが、ムスクの香りは動物由来のもの。
珍しい香りだったからか、せっけんなどでもムスクの香りのものが増えていきました。
また、明治時代には「においみず」と呼ばれる国産のフレグランスも続々誕生しました。
文明開化により、日本人の生活に西洋文化がどんどん取り入れられるにつれ、香水も市民権を得ていきました。
19世紀末からの日本の香り
19世紀末になると、化学物質を使い香料を安価に大量生産できるようになりました。そして、人工的な香りの香水が大流行。
人工の香りは最先端の技術を使ったものなので、その香水をつけることにより先進的なイメージを感じたのかもしれませんね。
その後、日本では香水やいい香りのするものは、人々の生活と切り離せない存在になりました。
近年では、香りが長く続く柔軟剤が流行っていることを考えても、日本人の香りへの意識は高いと思われます。
まとめ
現在の「香水」は、ファッションの一部として使用されることが多いです。
しかし、その歴史を見てみると、宗教の観点や、防腐・防臭など文化に根付いた興味深い記録が残されています。
14世紀に作られた「ハンガリーウォーター」や、16世紀から現在にまで続くサンタ・マリア・ノヴェッラ薬局などの歴史を知ると、古くから人々に愛される「香り」が持つ価値の凄さを感じることができます。
私たちも、香りを身にまとうことで、現代という「香水の歴史」の一部を味わってみませんか。
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